ジャズの起源 – 1

Congo Square(コンゴスクエア)

1800年当時、ニューオリンズは奴隷貿易の中心地であった
1817年、奴隷は日曜の午後、コンゴ広場で歌と踊りを許される
白人たちは初めて触れるアフリカ音楽・文化に驚くが、実は奴隷の半数は西インド諸島経由のアフリカ系であり、アフリカ大陸を見たことがなかった
コンゴ広場の音楽はカリビアン音楽の影響も受けていた
また、アメリカ南部から連れてこられた奴隷も多く、彼らはワークソングやスピリチュアル、コールアンドレスポンスなどを持ち込んだ

Creole(クリオール)とニューオリンズ

街にはクリオールと白人黒人混血種の富裕層がいた
自身はヨーロッパの血を引いていると考え、黒人たちを見下していた
奴隷を持つものもいた
彼らはクラシックの教育を受けており、ダンス用の音楽を演奏できた

1838年、町ではブラスバンドが流行、様々なパレードが年中行われる

南北戦争前の10年間にニューオリンズには3つのオペラハウスがあり、白人とクリオール、それぞれのオーケストラがあった

1840年代、ミンストレルが流行
喜劇のようなものだが、黒人差別の側面が強くあった
そこから現代にも残る、有名な曲やジョークも生まれる
最初のヒット曲は、ダディ・ライスによる”ジムクロウ”

南北戦争

1861年1月26日、ルイジアナ州は合衆国を脱退
しかし15ヶ月後、連合艦隊に破れ、ニューオリンズは陥落
北軍の占領により、奴隷解放や創作活動の解放、
それによりジャズの演奏が可能になる

南北戦争後の12年間は”南部再建”と呼ばれた時期で北軍が南部を占領し市民権を守らせ
その監督のもと、合衆国統一を試みました

1877年、北部共和党と南部民主党の不正な取引が元で連邦軍が撤退、統一が一夜にして崩壊する
街は再び白人の配下になる

奴隷は小作人となり、KKKが台頭しリンチが横行する
アフリカ系アメリカ人を隔離する政策”ジム・クロウ法”が施行し始める

ジャズに欠かせない要素

1890年代、ニューオリンズに2つの新しいスタイルが登場

スピリチュアルやマーチ、ミンストレルなどを踏襲した”ラグタイム”
国内の若いダンサーに広がる

また、ミシシッピデルタから移住した人々によって”ブルース”も広がり始める
彼らは綿花やとうもろこし栽培よりも、街の船着き場の方が良い暮らしが約束されていた為の移住であった

音楽家たちは南北戦争後、残った管楽器などを軍楽隊式に吹いていた
その後、教会のスピリチュアルやブルース、
それら両方を習得し、2つを融合し演奏し始める

隔離政策

1890年、ジムクロウ法の影響によりミシシッピ議会は黒人と白人の汽車を分ける条例を制定
1896年、最高裁でも隔離は違憲ではないとする
その後60年間、アメリカ南部を隔離政策が支配する

また、祖父母が奴隷だったものの投票権が剥奪される
当時95%の黒人が投票権に登録したが、有資格者は1%になる

これによりクリオールも黒人同様の下級市民となる
クリオールオーケストラも消滅
クリオール演奏家たちは半ば強制的に黒人コミュニティに加入

それにより、クリオールが持っていたクラシックのテクニックと黒人のブルースに影響された音楽が出会い、街の音楽に変化をもたらす

その時点で黒人とクリオールが融合した音楽に呼び名はなかった

最初のジャズミュージシャン

1877年(南部再建終了の年)最初のジャズプレイヤー、バディ・ボールデン誕生
音楽的発明、ビッグ4を生み出したと言われる

1906年には街で有名な黒人ミュージシャンになり、”キング・ボールデン”と呼ばれる
ストーリーヴィルと呼ばれる風俗街で特に人気になる
ニューオリンズでは公娼が認められていた

しかし酒が原因で、仕事を忘れたり、メンバーと喧嘩をするようになる
のち自殺未遂をし、その後州立精神病院で余生を過ごす

ジェリーロール・モートン(1890年ニューオリンズ生まれ)

一家でフランスから来たと自称するが、母親はクレオールで未婚、先祖はハイチ人
10代の頃から売春宿などで演奏を始める
後年には”ジャズは自分が発明した”と語る
多くの作曲をし、ジャズを譜面に残したのは彼が最初であった
カリビアンのハバネラリズムを取り入れた曲を彼は”スペイン調”と呼んでいた
17歳で家を追い出され、旅を始める
各地で演奏をし、ミンストレルにも参加する

ボールデンやモートンが演奏していた音楽は当初”ガットバケット”などと呼ばれていた
その後”Jass”という名前になる(語源は諸説あり)暫くして”Jazz”になる

ニュースター

1910年までに様々な人種のバンドが結成される
ニュースターも次々誕生する

フレディー・ケパード
キッド・オリー
ジョー・オリバー
シドニー・べシェ
など

シドニー・べシェ
クラリネットを独学で習得し、10歳でケパードのバンドと共演
16歳で学校を卒業し、演奏に没頭。すぐにニューオリンズで評判になる
その後街を離れ、南部や中西部で演奏活動を行う

1901年、ビクターが蓄音器を発売、レコードが一大産業になる

1914年、ラグタイムが人気を博す
中流階級の家庭にはピアノがあり、譜面も売れていた
ニューヨークは音楽の中心であり、出版社や音楽家たちがタイムズスクエア近くの”ティンパンアレイ”と呼ばれる場所で新曲を発売していた

ダンス

新しい音楽が新しいダンスを生み出していた
特にペアダンスが流行っていたが、黒人文化の影響を年配層は危惧していた

ラグタイムダンスのスターが誕生
アイリーン・キャッスル、バーノン・キャッスル夫妻
彼らは黒人オーケストラを連れていた

オーケストラのリーダーはジェームス・リース・ユーロップ
聖職者の息子でDC出身
23歳で流行の黒人ショーの音楽監督を務める
夫妻と出会う前はニューヨークで資産家を相手に演奏していた

黒人オーケストラ全員が譜面を読むことができたが、白人たちはそれを頑なに認めようとはしなかった

ユーロップはラグタイムだけでは満足せず、黒人音楽をさらに広げることを目指す
夫妻と公演を回るのは、黒人オーケストラの演奏を宣伝する機会でもあった
夫妻もそれを応援
W.Cハンディのメンフィスブルースをフォックストロットの伴奏用に編曲する

結果、全国にブルースが広がり、さらに新しいダンスとその音楽が求められた
ニューオリンズ生まれの革新的な音楽であるジャズの道が開かれる

史上初のジャズレコード

1914年、ニューオリンズのフレディ・ケパードはバンドを率いてロサンゼルスに向かう
同郷6人と”オリジナル・クレオール・オーケストラ”を結成
4年間のツアー後、シカゴに落ち着き、”キング・ケパード”と呼ばれた

ケパードはパワーとテクニックがあるのに、運指を盗まれないかと不安で手をハンカチで覆って吹くこともあった

1915年12月、ビクターがレコード化を申し出る
実現していれば史上初のジャズレコードだったが、断る(演奏がコピーされるのを遅れたためと言われる。またレコード化の話自体が誤解の可能性もあり)

1917年2月26日、史上初のジャズレコードが誕生
白人5人のバンド、”オリジナル・ディキシーランド・ジャズバンド”がニューヨークで録音
リーダーはニック・ラロッカ(イタリア人靴屋の息子)

1917年3月7日に発売し、すぐに大ヒット
一枚75セントのレコードが25万枚以上売れる
当時売れていたオペラやマーチに大きく差をつける

その後アメリカはジャズ黄金時代に突入
コンゴ広場から広まった音楽がついに全国区になる

ジャズ黄金時代

新しいバンドが次々登場
ルイジアナ5
オリジナルメンフィス5
ニューオリンズ・リズム・キングス
ニューオリンズ・キングスオブリズ
オリジナル・ニューオリンズ・ジャズバンド(ブルックリン育ちのピアニスト、ジミー・デュランテが作ったバンド)

オリジナル・ディキシーランド・ジャズバンドは”ジャズの創造主”を自称し
イギリスツアーを成功させるがその後、バンドは解散

エディ・エドワーズ(Tb)1918年に徴兵
ヘンリー・ラガス(pf)インフルエンザで1919年に死亡
ラリー・シールズ(cl)1921年に脱退
ニック・ラロッカ(tp) 1925年引退、建設業に戻る

ニック・ラロッカは
”ジャズは白人だけで作ったものだ、黒人は関係ない”
”ジャズのリズムをアフリカのものとして、黒人にルーツを求める評論家もいる”
”だが、黒人は白人からこのリズムを教わった”
”どのジャンルの音楽でも白人の方が黒人より上手だ”
と語る


参考資料
Ken Burns Jazz


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